しあわせはいつも自分のこころが決める
しあわせになってほしいと、
だれもが人さまのことを思います。
・・・が、どんなにわたしたちが
その人がしあわせになる『コツ』を伝えようが、
残念ながら、しあわせかどうかを決めるのは、
ご本人のこころなんです。
かつて、わたしは人さまの命を救いたい、
救えるんだ・・・と傲慢にも思っていました。
けれど、残念な結果に出合ったり、
また、どうしてなんだと
自分を責めて悩んだこともありました。
そうして、わかったんです。
人の命を救えるのは、本人しかいないと。
救えるはずと傲慢にも思っているから、
救えなかった時の、自分の落ち込み、
ショックは大きい。
でも、救えるのは本人次第と心したら、
わたしにできることは
祈ることだけと思ったんです。
いくら正しいことかもですが、
それはよく考えれば、
自分中心の厳しい言葉で言うなら
自分の主張を正当化する
自己弁護でしかありません。
しあわせになってほしいから、
いうんだと力説しようが、
相手のこころが聴く耳を持たなければ、
届きません。
「も~、ほっといて」となるだけです。
つまり、どんなにいい意見でも、
相手のこころが受け付けないと、
残念ながら無理なんですね。
一億円がなきゃ、
しあわせじゃないという人に、
しあわせはお金じゃないよと言っても、
信じません。
一億円がない間はずうっと、
ふしあわせなんですからね。
これが食べていけるだけあればと
思えるなら、しあわせですよね。
「しあわせは いつも じぶんのこころが きめる」
と言ったみつをさんは素晴らしいですね。
どれ程ささやかな人生であろうとも、
他人の人生を代わりに生きることなどあり得ない。
派手に生きているように見えようとも、
慎ましすぎる生き方に見えようとも、
自分自身の人生なのだ。
大きな人生など無い。
人の評判や評価などとは無関係に、
実は皆、小さな人生を精一杯に生きているのだ。
(もう愛の唄なんて詠えない、さだまさし)